大分の人にとって小鹿田焼は、どこの家庭にも必ず一つや二つはある身近な存在。
でも小鹿田焼は、いつ頃から、どこで、誰が、どのように作っているのかについては、
意外と知られていないのではないでしょうか。
そこで訪ねた「小鹿田焼の里」は、大分県日田市源栄(もとえ)町皿山の谷あいにあり、
窯元10軒が寄り添うようにして集落を作っています。
この地に足を踏み入れると、まず耳に入ってくるのが、川のせせらぎの音に混じって響く
「ギギィー、ゴトン」という、のどかな音。
谷川から水を引き、ししおどしの要領で陶土を砕く唐臼(からうす)の音です。
歩を進めると、立ち並ぶ登り釜、薪置き場、大きな粘土の塊、天日干しの器たちが
次々と目に飛び込んできます。
まるで、はるか遠い時代にタイムスリップしたかのようです。
それもそのはず。
ここで行われている陶器作りは、300年前とほとんど変わりないのです。
土づくりから窯出しに至る行程のすべてが昔ながらの手作業で行われ、
電気もガスも機械の動力も使いません。
陶土の粉砕には唐臼、ろくろは足で蹴って回転させる「蹴(け)ろくろ」を使用。
形成した素地の乾燥は天日干し、焼成は薪を焚く登り窯といった具合です。
窯元は現在、黒木姓が3軒、柳瀬姓が2軒、坂本姓が4軒、そして黒木家から分家した
小袋姓が1軒の計10軒ありますが、江戸時代の開窯以来、変わることなく
3家態勢による共同運用をしていて、作品に個人名や窯元の名を入れることもしません。
小鹿田焼を全窯元の共有ブランドとして守りながら、
人々の日々の暮らしに役立つ実用性の高い陶器を、黙々と作り続けているのです。
小鹿田焼の里には、日本人が失ったもの、失ってはいけないものが
たくさん残っているような気がします。
この里を訪れると、小鹿田焼を見る目もきっと変わることでしょう。
- 江戸中期
- 日田郡大鶴村の黒木十兵衛が、筑前から小石原焼(こいしわらやき)の陶工・柳瀬三右衛門を招き、李朝系の登り窯を開窯。
これに当時の小鹿田地域の坂本家が土の提供者として加わり、小鹿田焼の基礎ができたとされる。
登り窯は複数の窯元の共同窯として使用し、集落の陶工が日常生活に使用する陶器を作る。 - 大正末期
- 小鹿田焼特有の「飛び鉋(かんな)」、「打ち刷毛目」などの装飾技法が取り入れられる。
- 昭和6年
- 民芸運動の指導者・柳 宗悦(やなぎむねよし)氏が来窯。
紀行文「日田の皿山」を発表し、伝統の技と作風を高く評価したことで、小鹿田焼は広く全国に知られるようになる。 - 昭和32年
- イギリス人陶芸家・バーナード・リーチ氏が来窯。長期滞在して作陶し、高く評価したことで、小鹿田焼は海外にまで知られるようになる。
- 昭和39年
- バーナード・リーチ氏が、後に人間国宝に認定された陶芸家の濱田庄司氏とともに再来窯。
- 平成7年
- 小鹿田焼の陶芸技法が、国の重要無形文化財に指定される。
- 平成8年
- 谷川の水を利用して唐臼(からうす)で土を粉砕する音が、「残したい日本の音風景100選」に選出される。
- 平成20年
- 窯元のある皿山地区と棚田が広がる池の鶴地区全体が「小鹿田焼の里」として、重要文化的景観に選定される。
- 平成23年
- 現在、10軒の窯元が伝統の技を受け継ぎ、守りながら陶器を作っている。






























